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現在の太多線、多治見駅~可児駅間にあたる新多治見~広見間が、
東濃鉄道の手により1918年12月28日に開通し、それから100年が経過しました。
まずはおめでとうございます。
太多線の開通については、可児市の近隣の御嵩町史にも詳しく掲載されており、
この鉄道の敷設には、中央線開通によって取り残される旧中山道の宿場の人たちが、
自ら資金を出し合って鉄道を敷設することにより、少しでも挽回を試みるという意図が
あったようです。ただ、資材が高騰したとかで、軽便鉄道規格にせざるを得ず、
民間出資で投資も思うにまかせなかったらしく、高山本線と異なる急曲線などが
現在まで残されているのは、そのことによると思われます。
(日中に臨時列車で運転されたキハ40・48)
この時は国鉄時代の車両が日中に走行したものですが、キハ48は国鉄時代(新造直後)から
あり、書籍の記録写真にも朱色で多数登場します。そのため、100年のうち40年近くがこの車両とともにあり、結構な割合なのだと驚きました。
今後もより一層、重要な路線として活躍していくものと思います。
東濃鉄道の手により1918年12月28日に開通し、それから100年が経過しました。
まずはおめでとうございます。
太多線の開通については、可児市の近隣の御嵩町史にも詳しく掲載されており、
この鉄道の敷設には、中央線開通によって取り残される旧中山道の宿場の人たちが、
自ら資金を出し合って鉄道を敷設することにより、少しでも挽回を試みるという意図が
あったようです。ただ、資材が高騰したとかで、軽便鉄道規格にせざるを得ず、
民間出資で投資も思うにまかせなかったらしく、高山本線と異なる急曲線などが
現在まで残されているのは、そのことによると思われます。
(日中に臨時列車で運転されたキハ40・48)
この時は国鉄時代の車両が日中に走行したものですが、キハ48は国鉄時代(新造直後)から
あり、書籍の記録写真にも朱色で多数登場します。そのため、100年のうち40年近くがこの車両とともにあり、結構な割合なのだと驚きました。
今後もより一層、重要な路線として活躍していくものと思います。
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