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11月8日、美濃加茂市では、日本昭和村を会場に「美濃加茂市民まつり」が開催されました。
この催しは9日も開催されます。
この「市民まつり」の際、会場となる日本昭和村の入場料が無料になるほか、美濃太田駅と昭和村の間には、通常運行される定期路線バスとは別に無料の「シャトルバス」が運行されます。
この日は岐阜バスの岐阜・高富営業所の車が各1台づつ充当されました。
それにさきがけ、この日は8時から9時にかけて、美濃太田駅に特別な車両が3本到着しました。
8時50分頃、美濃太田まで定期普通、同駅から臨時快速の赤ツートン車が現れます。
赤ツートンは昭和34年から使用された塗装である一方、40系列は当初朱色一色で登場し、むしろこの色を駆逐する側だったはずですが、いざまとってみると実によく似合いますね。
この後、1・2番線には昭和末~平成のキハ11が発着し、4番線には昭和期のキハ48が停車しています。筆者は車両区の様子を見ようと、乗客数人の太多線列車に乗車しました。車両区を眺めるまでもなく気になる状態を目にしました。早くも、本線に合流せんばかりの状態のキハ25の1編成がいたのです。
当ブログでも最近はキハ25の内容の方が人気があるだけに、試運転とは、というのが頭をよぎりました。
都合上可児まで行き、客が多数降車して、何しに行くのか興味深い3613Dで美濃太田へ引き返すと、目の前に「ひだ3号」がいました。
3日にも3号と10号にラッピング車が連結されていました。
この時、中線の東側にはキハ25がおり、これが恐らく先ほど待機をしていた編成と思われます。この編成は9時30分頃に動き出して多治見または富山の方向へ向かいました。高山本線での目撃情報が多いため、おそらくそちらへ向かったのでしょう。そしてこの時刻は、昨年のさわやかウォーキングの際の増発列車とほぼ同じ時間で、以前あった臨時列車のスジを活用する例もあるようですね。
キハ25形P102編成。
ちょうど昭和~平成と時代順になっていることに気づいたので並べてみました。
昭和村では、建物は昨年とあまり変わりませんが、中身の一部が変わっていました。 やまびこ学校の中には、「オート3輪」が展示されていました。
また、この時期には園内の植物が色づいてきます。
そして、牧場の位置が移動するなど、昨年と少々変わっていたのですが、「列車遊具」も刷新されました。新幹線0系や103系のおもちゃ、「JRパノラマカー」が消えて、「アンパンマン」の汽車と、700系新幹線のおもちゃになっていました。
厳密の「昭和」と言えるかは分かりませんが、昭和から時間がたち過ぎた現在は、昭和のものが部品の関係で置けないのかもしれませんね。
ところで、昭和村を見ると、昭和はなんと楽しい時代だったかと思います。
昭和期の高山線には、高山に早朝に着く客のための夜行「のりくら」や、大阪発着の「たかやま」など特急より低額の料金の「急行」が存在しました。しかし、高山本線では、特急・急行の間隔が今より不等間隔であったり、岐阜~美濃太田間や太多線で次の列車まで2時間あくような事例も見られ、不便な部分もありました。
1980年に発行された鉄道ジャーナルでは、当時の国鉄名古屋と名古屋鉄道の幹部との対談が行われた回があります。この中で、当時の名古屋局の幹部は、国鉄利用が浸透していないことへの懸念を示し、頻発運転や高山本線で眺望のきく特急車両の運転への夢などを語っていました。「プラン80」と呼ばれるそうですが、その時の同幹部の危機感が、現在につながっているのだと思います。
この車両で太多線内を頻発運転するアイデアも、それが原点でしょう。
この催しは9日も開催されます。
この「市民まつり」の際、会場となる日本昭和村の入場料が無料になるほか、美濃太田駅と昭和村の間には、通常運行される定期路線バスとは別に無料の「シャトルバス」が運行されます。
この日は岐阜バスの岐阜・高富営業所の車が各1台づつ充当されました。
それにさきがけ、この日は8時から9時にかけて、美濃太田駅に特別な車両が3本到着しました。
8時50分頃、美濃太田まで定期普通、同駅から臨時快速の赤ツートン車が現れます。
赤ツートンは昭和34年から使用された塗装である一方、40系列は当初朱色一色で登場し、むしろこの色を駆逐する側だったはずですが、いざまとってみると実によく似合いますね。
この後、1・2番線には昭和末~平成のキハ11が発着し、4番線には昭和期のキハ48が停車しています。筆者は車両区の様子を見ようと、乗客数人の太多線列車に乗車しました。車両区を眺めるまでもなく気になる状態を目にしました。早くも、本線に合流せんばかりの状態のキハ25の1編成がいたのです。
当ブログでも最近はキハ25の内容の方が人気があるだけに、試運転とは、というのが頭をよぎりました。
都合上可児まで行き、客が多数降車して、何しに行くのか興味深い3613Dで美濃太田へ引き返すと、目の前に「ひだ3号」がいました。
3日にも3号と10号にラッピング車が連結されていました。
この時、中線の東側にはキハ25がおり、これが恐らく先ほど待機をしていた編成と思われます。この編成は9時30分頃に動き出して多治見または富山の方向へ向かいました。高山本線での目撃情報が多いため、おそらくそちらへ向かったのでしょう。そしてこの時刻は、昨年のさわやかウォーキングの際の増発列車とほぼ同じ時間で、以前あった臨時列車のスジを活用する例もあるようですね。
キハ25形P102編成。
ちょうど昭和~平成と時代順になっていることに気づいたので並べてみました。
昭和村では、建物は昨年とあまり変わりませんが、中身の一部が変わっていました。 やまびこ学校の中には、「オート3輪」が展示されていました。
また、この時期には園内の植物が色づいてきます。
そして、牧場の位置が移動するなど、昨年と少々変わっていたのですが、「列車遊具」も刷新されました。新幹線0系や103系のおもちゃ、「JRパノラマカー」が消えて、「アンパンマン」の汽車と、700系新幹線のおもちゃになっていました。
厳密の「昭和」と言えるかは分かりませんが、昭和から時間がたち過ぎた現在は、昭和のものが部品の関係で置けないのかもしれませんね。
ところで、昭和村を見ると、昭和はなんと楽しい時代だったかと思います。
昭和期の高山線には、高山に早朝に着く客のための夜行「のりくら」や、大阪発着の「たかやま」など特急より低額の料金の「急行」が存在しました。しかし、高山本線では、特急・急行の間隔が今より不等間隔であったり、岐阜~美濃太田間や太多線で次の列車まで2時間あくような事例も見られ、不便な部分もありました。
1980年に発行された鉄道ジャーナルでは、当時の国鉄名古屋と名古屋鉄道の幹部との対談が行われた回があります。この中で、当時の名古屋局の幹部は、国鉄利用が浸透していないことへの懸念を示し、頻発運転や高山本線で眺望のきく特急車両の運転への夢などを語っていました。「プラン80」と呼ばれるそうですが、その時の同幹部の危機感が、現在につながっているのだと思います。
この車両で太多線内を頻発運転するアイデアも、それが原点でしょう。
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