忍者ブログ
鉄道関連とその沿線、中部国際空港駅発列車等を取り上げています。
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


現在の高山本線の最初の開業区間にあたる岐阜・各務ヶ原間が開業して100年となり、
開業区間の各駅には記念するポスターが貼り出されたとのことです。

 各務ヶ原駅では、国鉄からJR東海に移行した頃に、駅舎にコンビニエンスストアが
設置されて話題となり(後に閉店、最近は待合室を除き撤去)ました。これは上りホーム側に
ある建物です。

 では、下りホーム美濃太田・高山方面の待合室の建物に注目したことはおありでしょうか。
私は全然気にもしていなかったのですが、ある時この建物をじっくり見てみて驚きました。

 

 あれは本当にこの時代の建物なのでしょうか。
 そうだとしたら築100年近いということになりますが、途中で修理名目で
建て替えられた可能性もあります。

 とにかく貴重な建物のようなので、無意識ではなく大事に使おうと思いました。



 

PR

「みえ」号が今年で設定から30年を迎えますが、今年はほとんど客の姿のないままの
列車があり、見ていて少々辛いものがありました。
 感染防止に注意しつつ、今後盛り上がっていってもらいたいと思います。

 今までのもやもやを払うべくドンどやってみよう、ということで今回、キロハ84形の
グリーン室を見てきました。
 さすがに普通車よりも椅子が大きいですね。
 



遅くなりましたが、2020年あけましておめでとうございます。

 数年前、何か月か飛水峡で写真を撮ったことがありましたが、あの場所の通過列車で最も多いのは、普通列車、すなわちキハ25やキハ75ではなく特急「ひだ」です。

 

それ以来やっぱりアレにも乗りたい、と思い始めました。これには実は都合のいいプランがあるそうですね。

     

それと元国鉄急行→JR北海道の夜行快速「ミッドナイト」で使われたキハ27形、この車両のあるホテルに近い焼岳も最近大丈夫なのか、という気がしたので、これを見に行ってみることにしました。

 キハ27の「顔」は窓や灯器類、タイフォンなどが揃えられて、きちんと維持されています。 床下機器は台車、エンジンなどが揃い、こちらも塗りなおされていたようです。  昨年改元にあわせてリニューアルされただけのことはありました。  道路側の側板はひびなどのないきれいな状態になっていましたが、従来あった乗務員室扉、側扉が見えなくなり 、昔とは趣が異なるかもしれません。 ここは鉄道ファンの間でも賛否が分かれそうなところでしょう。しかし外板の補修に関しては、やむを得ない面もあると思われます。  営業電車を見る限り、程度が良いように見えますが、保存車などでは保存が始まってから10年たたないうちに劣化しているところを見ることがあります。鉄道会社でも普通鋼車体では検査ごとに多数の箇所の修繕を行っているようで、まして部外者には補修がかなり大変で、車両保存に取り組まれている方も、金も人も資材もないと嘆いておられました。

 まずは私は鉄道車両が遺されていることだけでもありがたいと思うこともあります。ホテルの今後の繁栄を祈ります。


キハ25-1000は落成時の試運転で2+2+2ということがありました。しかし
私は写真を撮っていないので、今回は手持ちの画像の中で
2+2+2っぽいものをお見せします。


 現在の「ナイスホリデー木曽路」、快速の名古屋発塩尻行きです。
この列車は313系1300番台2両-2両-2両となっています。

 それ以上に、塩尻行きということで、終点は長野県。
寝覚めの床やら木曽福島やらを見ながら走るのだなあと
思うと、旅情がわいてきます。

 次の写真は1-2-1-2で1が入っていますが


 今となってはこの車両が懐かしくなりました。


現在の太多線、多治見駅~可児駅間にあたる新多治見~広見間が、
東濃鉄道の手により1918年12月28日に開通し、それから100年が経過しました。
 まずはおめでとうございます。

  太多線の開通については、可児市の近隣の御嵩町史にも詳しく掲載されており、
この鉄道の敷設には、中央線開通によって取り残される旧中山道の宿場の人たちが、
自ら資金を出し合って鉄道を敷設することにより、少しでも挽回を試みるという意図が
あったようです。ただ、資材が高騰したとかで、軽便鉄道規格にせざるを得ず、
民間出資で投資も思うにまかせなかったらしく、高山本線と異なる急曲線などが
現在まで残されているのは、そのことによると思われます。

  (日中に臨時列車で運転されたキハ40・48) 
 この時は国鉄時代の車両が日中に走行したものですが、キハ48は国鉄時代(新造直後)から
あり、書籍の記録写真にも朱色で多数登場します。そのため、100年のうち40年近くがこの車両とともにあり、結構な割合なのだと驚きました。

 今後もより一層、重要な路線として活躍していくものと思います。